『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』第1話の感想~実存が消耗品化し「非対称」化した世界で「対称」性の回復を試みる「神話」的物語の始まり(ネタバレ注意)

 相羽です。

 今回はアニメ


●「マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝」

https://anime.magireco.com/


 第1話『やぁやぁ、知ってる?魔法少女のその噂』

 の感想です。

 ネタバレ注意です。

 ◇◇◇

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 ◇◇◇

 原作のスマートフォンゲームは未プレイです。

 一方、原典(と言いますか……)の『魔法少女まどか☆マギカ』に関してはじっくりと観て、かつてブログの方で色々考察コラムみたいなのも書いていたりとか、そんな感じの僕の感想となります。

 今回の『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』。

 非常に「神話」的な物語だと感じました。

 原典『魔法少女まどか☆マギカ』の頃から「神話」的な要素はある作品だったのですが、それ以上に。

 「神話」とは何かというと、めっちゃざっくりとは中沢新一の『カイエ・ソバージュ』によれば、


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あらゆる神話には、ひとつのめざしていることがあります。それは空間や時間の中に拡がって(散逸して、とでも言いましょうか)、おおもとのつながりを失ってしまっているように見えるものに、失われたつながりを回復することであり、互いの関係があまりにバランスを欠いてしまっているものに、対称性を取り戻そうとつとめることであり、現実の世界では両立することが不可能になっているものに、共生の可能性を論理的に探り出そうとすることです。

 中沢新一『カイエ・ソバージュ』(講談社)39Pより引用

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 ということになります。

 『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』第1話、随所随所に、主人公の環いろはの実存の半分が欠けていて、環いろはは実存として(人間として)「非対称」な状態に陥っているというのが描写されていきます。


・対称(シンメトリー)な構造なのに、半分がまるまる空になっているいろはの部屋。

・二つの対になるお弁同箱(でも片方は食べる人がいない)。

・二つの対になる旅行ケース。


 すべて、「神話」的な命題としての「対称/非対称」にまつわるシンボル(象徴)表現になっていたと思います。

 この、現実は「非対称」であり問題を抱えている! という地点を立脚点に、(ざっくりとは)「現実でない不思議な世界」の貫入を通して「対称」性を回復する……というのが、「神話」の構造の一つです。

 現実の「非対称」性、問題性として00年代、10年代にアニメーション作品の世界でよく描かれていたのは(過度の)「競争原理」で、それは代表作としてあげるなら『仮面ライダー龍騎』でも『Fate stay/night』でもイイのですが、いわゆる「バトルロイヤル」もの作品で顕著に主題として描かれていました。「競争原理」(だけ)を押し進めたら殺し合いにいきつくしかないヨね! という問題意識から始まる物語群です。

 原典『魔法少女まどか☆マギカ』もこの文脈をくんでいた作品で、「魔法少女同士の争い」構造(というか魔法少女を成立させるリソースが限られている構造)はまさに「競争原理」的な舞台ですし、他のあまたの00年代作品、10代作品と同じように「恋愛」も「競争原理」的であるという側面も描かれていました(「恋愛」は一人の異性を「競争」で奪い合うのが基本構造だから)。

 特に物語的には美樹さやかが、恋愛「競争原理」の犠牲者として描かれていたのが原典『魔法少女まどか☆マギカ』ですし(さやかちゃん!)、最終回でまどかが(いわゆる)神的な存在になって、そんな(「競争原理」的な)世界のルールそのものをブレイクする……というのが結末の作品が原典『魔法少女まどか☆マギカ』だったのでした。

 ですが、原典『魔法少女まどか☆マギカ』と今回の『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』の作中時間軸は分かりませんが(あるいは平行世界とかの設定もあり得るかも)、本作でも黒江さんは「好きな人と付き合いたい」という願いで魔法少女になった(そしてその後別れてる)と(物語的にはいわば「美樹さやか文脈」ですよね)、引き続き「競争原理」的な消耗恋愛世界で、人間は消耗品になっている……という苦しい「現実」が描かれていたりもします。

 では、そんな苦しい現実世界から救われるにはどうすればイイのか?

 仏教的、あるいは「神話」的には、現実から離れて「現実でない不思議な世界」で経路(東洋的には「縁」みたいな言葉がこれに近いのかもしれません)を繋ぎ直して「対称」性を回復する……ということになるのですが。
かい  では、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』における「現実でない不思議な世界」が何かというと、第1話時点では、


・夢

・結界(魔女と戦ってる不思議な空間)

・魔法少女としての環いろは


 などがあげられそうです。

 特に魔法少女としての環いろはが、「対称」の観点からの環いろはの半身であり、「現実でない不思議な世界」の側に属する存在である……というのは、原典『魔法少女まどか☆マギカ』のオープニング映像も「本歌取り」している、「二人の環いろは」が描かれるオープニング映像からも顕著なようです。

 これらの「現実でない不思議な世界」は、仏教でいうなら事事無礙法界(じじむげほっかい)のようなもので、通常の現実世界の論理だけでは成り立っていない不思議な世界です。

 あるいは、西洋的な方面からなら、『不思議の国のアリス』でアリスが訪れた不思議な世界的な場所でしょうか。

 仏教の事事無礙法界と『不思議の国のアリス』の世界を並列に語るのはちょっと乱暴な感じがしますが(実際やや乱暴なのですが)「現実とは違うところにある不思議な世界」くらいにゆるくとらえれば、同型の場所ととらえられないこともないです。

 (一般的な)「論理学」でいう「排中律」(「XはAか非Aかのどちらかであって、Aでも非Aでもないことはあり得ない」)が無効化されていて、「Aは同時にBでもあるかもしれない」こともあり得る世界になったりします(ソレがまさに「神話」的であるということなのですが)。

(また余談ですが、00年代、10年代のアニメーション作品で、もっとも「排中律」の無効化という主題に取り組んでいたのは、一連の京都アニメーション作品であるというのが僕の解釈です。)

 第1話から出てきた「結界」の中の敵もメタモルフォーゼ(変形)を続けており(ドラゴンのようになったり、別のフォームになったり)、「排中律」的な観点から、「●●は●●である!」と明確には同定できないような存在として描かれていますが、

 この点は原典『魔法少女まどか☆マギカ』を知っている人向けにはもうある程度ネタバレしていて、「魔女」は「魔法少女」の成れの果てですから、いわば「魔女=魔法少女」でもある、論理的な「排中律」があやふやな世界が描かれているのが「結界」だったりします。

 となると、「神浜市」は、「現実」世界と「現実とは違うところにある不思議な世界」との「境界領域」といった位置づけになるでしょうか。


「私、救われに行くの。夜のうちに、誰も知らない列車に乗って」


 からはじまるBパート後半の、「現実」では救われなかった少女たちが「現実とは違うところにある不思議な世界」を希求して、線路(=「境界」)をわらわらと進んでいく映像の、温かさと危うさが同居しているような雰囲気は、凄味がありましたね。

 かくして、「現実」「現実とは違うところにある不思議な世界」「境界領域」を渡って、主人公の環いろはが、自分が「非対称」である根源、自分という実存の欠けた半身=妹の「うい」の存在に気づいた(というか思い出した)ところで物語は始まります。

 失われた自分の半身を希求して、「非対称」性(何しろ自分の半分が喪われているのでバランスが悪くなっている)を「対称」状態へと回復していく、とても「神話」的な物語として『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』はとらえていけそうなオープニングの第1話だったのでした。



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